麻三斤(まさんぎん)
2011-05-14|禅語
「仏とはどのようなものか」との問いかけに、洞山守初は「麻三斤」と答えた。黄檗は棒でしたたかに打ち据えたし、臨済は「喝」と吼えたのだから、実に非暴力的な答えだ。
かの弟子は安心して「南方には竹藪があるし、北方には森があるのか」とひとりごちたのだろう。
重さ三斤の麻があれば、僧侶のお袈裟一着が作られる。仏とはお袈裟を着ているおまえ自身であり、おまえを離れては存在しない。南方に竹が、北方には木が多いのは自然本来真実の姿であり、おまえにはおまえの仏としての形があり、他の者も同様だ。
それにしても何故こうも人ごとなのだろう?死ぬのも、苦しみ悩むのも自分なのに、すべて人のことだと思っている。「屁ひとつだって、人と貸し借りできんやないか。人人みな『自己』を生きねばならない。」とは澤木興道老師のことばだが、仏も「自己」のほかにおいてあるわけないやろ!
『景徳伝灯録』巻22。
かの弟子は安心して「南方には竹藪があるし、北方には森があるのか」とひとりごちたのだろう。
重さ三斤の麻があれば、僧侶のお袈裟一着が作られる。仏とはお袈裟を着ているおまえ自身であり、おまえを離れては存在しない。南方に竹が、北方には木が多いのは自然本来真実の姿であり、おまえにはおまえの仏としての形があり、他の者も同様だ。
それにしても何故こうも人ごとなのだろう?死ぬのも、苦しみ悩むのも自分なのに、すべて人のことだと思っている。「屁ひとつだって、人と貸し借りできんやないか。人人みな『自己』を生きねばならない。」とは澤木興道老師のことばだが、仏も「自己」のほかにおいてあるわけないやろ!
『景徳伝灯録』巻22。
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